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「ビル?彼はジェリーと同じくらいグレイトだ。DeadとDeadHeadsの父(ファーザー)だよ」
■グラハム氏の携わっていた部分はGratefulDeadの活動の全てに関するプロモーションであり、マネジメントでした。金銭の絡む経済活動を一手に仕切っていたゆえに一部のDeadHeadsからは資本主義に犯されたいやなヤツなどの評価もあったようです。(この辺の思想的、政治的な部分は諸説ありますので割愛します)しかしほとんどのDeadhead達は彼の功績を偉大なものとして受け止め、存命中に残した数々のショー会場と、そこで行われた伝説のShowは今に語り継がれています
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■グラハム氏は1931年1月8日にドイツのベルリンで生まれました。 Fillmore Auditorium (The “Old
Fillmore)、 Fillmore West、 Fillmore East、 WinterlandそしてGrateful DeadのNew
Year's Eveでの奇抜ショーの立役者でした。 グラハム氏はカリズマ的で影響力のあるRock&Rollビジネスマンであり、ライブミュージックを演出する方法を根底的に変えていった功労者なのです。グラハム氏はSan
Franciscoで主に活動し、最初はクラブシーンでのライブミュージックに力を注ぎ、そして70年代にはホッケーアリーナやベースボールスタジアムなどの巨大コンサート場へライブミュージックの活躍の場を変化させていきました。グラハム氏はサイケデリックミュージックのムーヴメントをBayareaに起こし、発展させていった業績者であり、彼はまた初期の頃からGrateful
Dead に深く関係していったのです。
■グラハム氏は数えきれないDeadのShowをプロデュースしてきました。その中でもNew
Year’s Showは有名です。ちなみにDeadのアルバム“IN THE DARK”のカバーに写っている13番目の目は彼のものです。
グラハム氏が生まれた頃ドイツではヒットラーの独裁が始まり、ナチによるユダヤ人迫害によりGraham一家はドイツから離れる事を余儀なくされました。それはグラハム氏が七歳の時の事です。二年間フランスで過ごすした後の1941年9月にアメリカに移民してきました。少年時代をブロンクス(ニューヨーク)で過ごし、青年になると役者になる為に南カルフォルニアに移ってきましが、その後カルフォルニアを転々として最終的にSan
Franciscoにやって来るのでした。そこでグラハム氏に大きな転換が訪れるのす。Mime Troupeと言う劇場関係会社にアクターとして関わり出した時グラハム氏は次第に役者からエンターテイメントビジネスマンの道に歩み出したのです。
■グラハム氏が最初に手がけたものは1965年12月10日のFillmore
でのShowです。そこには The WarlocksからGrateful Dead に名前を変えたばかりの若きJerry達がいました。
グラハム氏は、Showをもっと良くする為にどの様にすれば良いか常に考えていて良いアイデアを書き込む為にクリップボードを持って殆どのShowに出向いていたそうです。それゆえ“クリップボードを持つ男”などとも呼ばれていたらしいです。
グラハム氏が他のプロモーターと違っていた所は、常に人々でにぎわうフロア−を見て回り音響からライトまで一つ一つチェックして観客から提案や批評を聞き出すことです。グラハム氏にとってShow終了後観客から“良いShowだった!”“今日来て良かった!”と言われる事が一番の喜びだった事でしょう。
グラハム氏はGrateful Deadのバンドのメンバーをファミリーの様に考え、常に心の特別な場所でDeadの事を思っていたそうです。
■The Fillmore Auditorium (The
“Old Fillmore): The Fillmore はCosmic Charlie(コズミックチャーリー)の出生地でありCosmic
Charlieが生まれた1966年1月8日は Fillmore Acid Test等と呼ばれています。その様子はSF Chronicle
の記事によると、Fillmore内は至る所飾りリボンと風船で埋め尽くされていてテレビカメラとテレビスクリーンがあり自分達の姿がスクリーンに映し出されていて、ストロボライトがカチカチと頻繁に点滅していて、人々にパンチされている黄金色の風船は上がったり下がったりしながらフロア−上空を浮遊していたそうです。
Fillmoreは、San Francisco のFillmore
とGeary Streetのコーナーにあるダンスホールで、歴史は古く最初のオーナによりイタリアンスタイルのダンスホールとして1910年代に誕生しました。その後色々な経営者に変わりながら発展してきました。そして1965年の秋から1968年の6月までBill
Grahamにより運営されていました。Graham氏の優れた組織力でスライドショウ、ブラックライト、ミラーボールそして風船によって効果を高められたFillmoreは新しい世代のサイケデリック・ロック・グループ達の活躍の場となっていったのです。
■そして1965年12月10日にDeadのFillmoreでの最初のショウがありました。この出来事は輝かしい26年にも及ぶGrateful
DeadとBill Graham氏の関係の第一歩でもありました。その一年後の12月31日に伝統的な、グラハム氏がスポンサーのDeadのNew
Year’s ShowがFillmoreで誕生したのです。そのShowでは、グラハム氏の友人Jim Haynie氏がオムツ姿でNew
Year’s Eve Babyを演じていましたが、その後数10年間はグラハム氏によって演じられていきます。 沢山の人々がそこでどのバンドのShowをやっているのかも知らずにFillmoreの評判の良さのみで来てくれている事をGraham氏は誇りに思い、Graham氏はそう言った事を逆手にとりDead等の色々な人を魅了出来るバンドを使い広い範囲のお客達に紹介していったのです。
その当時DeadはPigpen(ブルースマン)時代でありFillmoreで幾つもの素晴らしいShowを見せてくれました。マーチールーサーキング氏暗殺後、全米各地で広がる人種差別問題的緊迫での中、グラハム氏は黒人住民地区に囲まれたFillmoreを閉鎖して、Carousel
BallroomをFillmore Westと改名しました。グラハム氏によりFillmoreは1989年に再びオープンしましたが、その年秋に起きたSan
Francisco大地震によるダメージで再び閉鎖する事を余儀なくされてしまいました。 改装されより美しくなったFillmoreは1994年の4月27日にSmashing
Pumpkins, Ry Cooder, そしてDavid LindleyのShowにより新しい歴史の幕を開くのでありました。
■ Fillmore WestはDoodah Man(デューダーマン)の出生地であり、Doodah
ManはTruckin’(アルバム・アメリカンビューティに収録) と言う曲の中に出てくるキャラクターです。Truckin’
はDoodah Manの生まれた1970年8月18日のSet Iの最初に演奏されました(キャラクターはアルバムShakedown
Streetのウラ面に書かれるグリーンのズートスーツを着て歩いているヤツ)。
Fillmore Westは、San FranciscoのVan
NessとMarket Streetに位置する場所にあった2,800人収容可能な比較的小さなベニューでした。Fillmore Auditoriumが閉鎖した次の晩にグラハム氏によりFillmore
Westと名付けられオープンしました。それ以前はCarousel Ballroomの名で、Dead他複数のバンドマン達で商業的要素を少なくした会場を目標にして1968年の一月から春頃まで運営されていました。商業的要素を少なくする試みはとても気高い事でありDeadは自分達にギャラも払わず、そこでShowを公演したが経営不振により同年6月にCarousel
Ballroomとしての短い幕を閉じました。
DeadはCarousel Ballroom当時からそこで演奏をしていましたが、Fillmore
Westと改名してから最初の公演は三晩続けてShowの68年8月20日〜22日でした。そしてDeadのそこでの最後の公演は閉鎖される三日前の71年7月2日で、そのShowは全て収録されSan
Franciscoにある三つのFMラジオ局で放送されたそうです
■Fillmore EastはSt. Stephen(セントスティーブン)の出生地であり、New
York市の東側下部に位置している2,400席の劇場でした。グラハム氏のEast Coastでのサイケデリックミュージックの活躍場としてVillage
Theaterの名で親しまれていた劇場を、68年にFillmore Eastと改名しました。
■ *WinterlandはBertha(バーサ)の出生地であり、Berthaは曲の名前でもありBerthaの生まれた1970年8月18日にBerthaはSet
Iの最初に演奏されました。 WinterlandはSan FranciscoのFillmore地域にあったグラハム氏による5,400席の60年代当時にしてみると大きいな劇場であったがため、Winterlandでの公演を始めた当初は沢山のお客から場所が大きいすぎると苦情があった。
グラハム氏は、木曜はFillmoreを使い金土はWinterlandを使いそしてまた日曜にFillmoreに戻ると言った興行をしていました。
70年代頃にはWinterlandの看板として2つの大きなバナーがステージの横の壁に掛かっていました。1つはDeadのスカル&ローゼス、そしてもう1枚はRolling
Stonesの有名な赤い舌です。*現在閉鎖され跡地はコンドミニアムになっています
DeadはFillmoreの様な小さなベニューでの公演を好んでいたため60年代はWinterlandで公演する事は少なかったが、73年頃になるとWinterlandはBayareaでの1番のDeadが演奏する場所になっていきました(人気が出てきたのですね)。そこでの最後のShowを合わせてDeadは61回ものShowを開きました。しかしWinterlandも1978年の終わり頃に閉鎖してしまったのです。建物は数年間も抜けのカラでしたが、80年代半ばに壊されコンドミディアムに建て直されました。WinterlandはそこでDead他色々なShowを見たBayareaのロックファンの心にいつまでも残っている事でしょう
■ベイエリアを中心にショー会場のプロデュースと偉業を果たしたBill
Graham氏は1991年10月25日にヘリコプター事故でこの世を去りました。同年11月3日にSan FranciscoのGolden
Gate Parkで彼の業績に感謝を込めて “Laughter, Love, and Music”と言うコンサートがGrateful
Deadその他数多くのバンドや友人達の手により開かれました。コンサート終了後人々はグラハム氏がこよなく愛したSan Franciscoの空を見上げ“Hey,
Bill…great show(なあビル...良いショウだったよ。)”とつぶやいたそうです。
(左)SFにあるビルグラハム市民ホール (右)ショアライン(マウンテンビュー・サンノゼ)にあるロードサイン
なべさんとビルグラハム
群馬県赤城山に住まわれるログビルダーのDeadHeads、なべさんと奥様「せっちゃん」の体験談
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★1982年、年末、私は妻と初めて、グレイトフルデッドのショーに参加しました。
この時のショーは、26日から、29日のオフを挟んで、5日間のシリーズでした。 当時のデッドは、日本ではまだ、ヒット曲もなく、ましてや、ビーンベアの存在などもない、
一部の人にしか知られていないバンドでした。 私達は、ある友人のツテを頼って、日本からの10数人のツアーに参加させてもらいました
ツアーといっても、ただ単に、同じ飛行機でサンフランシスコヘ行き、ショーへ行く、と言う簡単なものでした。
当時は、今のように、ネットワークが存在しているわけではなく、チケットなどの情報も、日本では手に入りにくい状況でした。
それでも、行けば何とかなると言う事で、出かけて行きました。
26日から30日までのショウは、当日売りのチケットを簡単に入手でき、無我夢中ではありましたが、ショウを楽しむ事ができました。
ところが、肝心のニューイヤーズイブ(NYE)のチケットは、公式にソールドアウトと言う事でチケットはない、と言う事でした。
NYEショーの参加が、ツアーの最大の目的でしたから、チケットがないからと言って、簡単に諦めるわけにはいきません。
メインイヴェントともいうべきNYEの前日、30日のコンサート終了直後、
ツアーメンバー全員で徹夜で待機し、当日売りを手に入れようとなったわけです。 当時のサンフランシスコ・クロニクル(SF
Chronicle・ローカル紙)などのチケット売買コーナーでは デッドのショウはどの広告も完売で、売り切れたチケットのレートは100ドルでした。
★1ドル=250円の時代に100ドルを出しても、チケットはない、と言う状況でした。
私達は、オーディトリアムの周りで翌日のコンサートに備えていました。 オークランドの12月の夜、サンフランシスコ湾を渡って来る風は、かなり冷たいものでした。
野宿にも等しい状況では、寒さが身にしみます。何の準備もなしに、徹夜での待機と言う事でしたから。 ザーッと数えたところ、600人程が徹夜していたと思います。
しかし、チケットがなく、当日券のあてもないにも関わらず、 誰も悲愴感など無縁、と言った表情でその時間を楽しんでいたと思います。
現地のヘッズ達は、こう行った状況に慣れっこなのか、準備は万端で、それぞれシュラフや、毛布などを用意していました。 徹夜で待機する大勢のヘッズ達と共に、奇妙な連帯感を感じながら、その時を楽しんでいました。
そんな私達を楽しませてくれたのが、ヘッズ達による、即席の演芸会でした。 ジャグリング、自転車の曲乗り、突然のコーラス隊、次から次へと芸達者達が現れ、喝采を浴びていました。
寒さを感じることもなく、楽しい時が過ぎていきました。 夜明け近くのこと。大分疲れが見え始めたデッドヘッズから大歓声が起きました。
何と、ショーの主催者である、ビル・グレアム自身が、茶色のオープンカーに乗って、セーターにマフラーと言うスタイルで、私達の前
に現れたのです。 どうやら(どんなに並んでもチケットはないし、風邪を引く前に帰りなさい)と、私達を説得しにきたらしいのです。
(会場前のキャンプサイトでスープとパンを配っているから、朝食をとって、帰ってくれ) と懸命に説得していました。 この事は、私には、大きな衝撃でした。
おそらく、当時、世界で一番有名なプロモーターであったビル自身が、販売する予定のないチケットを求めて、徹夜している私達のことを心配して、様子を見に来たのです。
さらに、心と、体を暖めてくれる食事まで用意してくれていたと言う、事実に。
元来、ミーハーである私は、すぐ彼のところに行って、握手をしてもらい、心配りに感謝しました。
その時の、ビルは、気の良い仲間、と言った感じで笑いながら、(グッド、ラック)と言ってくれました。 もちろん!私達はクラムチャウダーとロールパン、バナナを有り難くいただき再び列に戻りました。
誰も帰る奴はいません。当然チケットは手に入る、と信じている様でした。 いろいろな出来事の後、無事チケットを手に入れ、念願だったNYEショーに参加出来ました。
★夜、12時のカウントダウンを迎え、会場の興奮は、絶頂に達しました。
突然、会場の灯りが消え、歓声が極限に達した時、 白い煙りの中を 巨大なキノコが現れ、MR.NEW
YEAR=ビル.グレアムが、ブルーのケープをまとい、 まるで、新年を呼び寄せる魔法使いのようないでたちで現れたのです。
デッドのショーを見に行くたびに、ビルが嬉しそうにニコニコ笑いながら、ステージの袖から、
デッドの演奏を楽しみ、私達ヘッズの様子を楽しんでいた姿を思い出します。 私は、彼こそが、デッドヘッズ第1号だと、確信しています。
彼がいたからこそ、グレイトフルデッドが30年間と言う長い、不思議な旅を続けてこられた、とも思っています。 ショーが始まる前の時間、会場に早くやって来た私達と、ヴァレーボールを楽しみ、
その優勝チームには、NYEのチケットをプレゼントする、などと行ったエピソードは、たくさんあります。 彼こそが、一番デッドのショーを楽しんでいたのかも知れませんね。
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| ・・注 なべさんはご自身の信念と尊敬の念を持って「ビルグレアム」と表現しています |
今回、このような特集を組もうと思ったのは、前述のなべさんとせっちゃんの体験談を、とある6月の暑い日に赤城山のなべさん宅でお聞きしたからです
。Bill Grahamのことも含めGrateful Deadの事を私達ごときが皆様にご紹介するのは僭越の極みではありますが、渡米の折り、お付き合いしている取引先の方達が「ベアーの世界だけではないGratefulDeadの世界を少しでも紹介して欲しい」と皆、一様におっしゃり、その意を強くしました。
Old Headsの方達にとって言葉足らずなところばかりでしょうがご容赦下さい
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SF/
Civic Auditoriumm前の路上に埋められているBill Graham氏の肖像 |
協力 ・渡辺克己氏 http://plaza22.mbn.or.jp/~yumekoubou/
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